≫ 連載「ハビタ的 自然化する都市のつくりかた」vol.1 滝澤恭平×馬場正尊 対談 はこちら
2018年にオープンした遅野井親水施設
子どもたちが小川の中を駆け回り、生き物を探している。幅1.5mほどの小さな小川には水生植物が生い茂り、魚たちが潜んでいる場所もたくさんありそうだ。水面から緩やかに擦り付けられた芝生の斜面には、魔法瓶とサンドイッチでピクニックを楽しんでいる大人たちもいる。犬を連れた散歩のおじいさんが立ち止まり、微笑みながらその風景を眺めている。
ここ、東京都杉並区の善福寺公園の中に、遅野井川親水施設が2018年7月にオープンした。遅野井川とは神田川支流の善福寺川の源流で、善福寺上池の湧水・遅野井(現在は地下水ポンプアップ)から付けられた名前だ。子どもが自由に遊ぶことができて、武蔵野の郷土種の水生植物や生き物を再生した、善福寺上池、下池をつなぐ全長150mほどの水路公園だ。もともとはこの水路はコンクリート擁壁と鉄柵に阻まれ、水路内は藪化し、人が入ることができない状況にあった。
実はこの施設は、地元の井荻小学校の生徒たちが杉並区長に「夢の水路」を絵に描いてプレゼンテーションを行ったことをきっかけに生まれている。なぜそのようなことが可能になったのか。そのことを語る前段として、まず、善福寺地域の歴史を遡ることにしよう。
善福寺にまちと公園ができるまで
昭和のはじめ、杉並区善福寺が井荻町だったころ、善福寺公園はまだなかった。低地には水田が広がり、台地の上には屋敷林や雑木林が鬱蒼と生え、崖下にはいくつかの泉が湧き出ていた。上池の市杵嶋神社奥の湧水・遅野井から湧きだした清水が小さな池をつくり、社殿は島となっていた。上池は現在の1/3程度の大きさで、下池は湿地と水田だった。このような武蔵野の湧水地の原風景と言えるような農村の風景が江戸時代から変わらず続いてきた。
帝都東京の住宅地の郊外への拡大を見込んだ井荻町長の内田秀五郎は、関東大震災前年の1922年に善福寺地域の区画整理事業を開始した。当時でも大規模であった区画整理事業は、1935年に完了し、グリッド状の街区が出現した。
さらに、内田町長は電灯を敷設し、中央本線・荻窪ー吉祥寺間に西荻窪駅を誘致し、地下水を汲み上げた上水施設である井荻水道を完成させ、善福寺地域のインフラをゼロベースで創り上げた人物であった。関東大震災以降、東京郊外への人口転出が拡大した際、善福寺は新住民を受け入れる土壌を既に計画的に備えていた。
同時に、内田は「郷土の風景を守ることは私達の義務である」と訴え、地域住民が中心となり昭和8年に善福寺風致協会を設立した。風致地区とは地域の自然美と景観を保全するための都市計画上の制度であり、この時代に住宅開発が進みつつあった田園調布、洗足、大泉、石神井といった郊外の「田園都市」にも指定が行われた。
善福寺公園周辺は風致地区に指定され、地域住民により豊かな自然環境を提供することを目指し、水田を掘って池が造られた。土地は地元からの寄付により、工事は東京都と風致協会の恊働で行われた。この池が現在の上池であり、ボート場をつくって風致協会自らが経営を行った。ボート経営により得た資金で、協会はさらに下池の整備や施設管理を行い、行政に頼らない自律的な地域独自の事業を展開した。
戦後、昭和36年に都立公園として善福寺公園が開園した以降も、協会は引き続きボート経営を行うとともに、公園内の植樹、家庭への苗木の販売と植栽相談、盆踊り大会の開催など風致を通して地域づくりの重要な役割を果たしてきた。風致協会は、レジャーの多様化、会員の高齢化、公益財団法の改正などの理由によって、2013年に80年間に渡る活動に幕を下ろした。
井荻小学校と川学習
井荻小学校に話を戻そう。善福寺地域校区に位置する井荻小学校は、学校の敷地の中を善福寺川が流下するというユニークな環境にある。2009年、小学5年生の社会科の授業で善福寺川が取り上げられたことがきっかけで、こどもたちは「待っているだけでは川はきれいにならないから、何かやろうよ」と言い出し、週1回の川の清掃活動を始めた。
川の中に入るには許可が必要なので、まずは川端の道のゴミを拾い始めた。その後、「学校支援本部いおぎ丸」の協力により区の許可を取り、善福寺川のコンクリート三面護岸を初めて降りることができた子どもたちは、川底のありさまに驚いた。川岸の草に白いものがたくさん絡みついている。トイレットペーパーであることが分かった。ひどい悪臭が漂っていた。
東京区内の下水道は合流式という、汚水と雨水が一緒に流れる構造となっている。そのため一定以上の雨が降った後は、下水道の管がいっぱいになり、川の吐口から汚水がそのまま流れ出てしまうのだ。一方で、川底には湧水がわき出ており、オイカワやカワニナなど少しきれいな水に生息する水生生物たちも生きていることを発見した。
都市のインフラ構造の現実と向かい合うことになった子どもたちは、下水道や川の構造について調べ、善福寺川の理解を深めていった。小学校を卒業した子どもたちの川の清掃活動は、在校生に引き継がれた。井荻小学校では「NPOすぎなみ環境ネットワーク」の協力によって、2011年より、川学習をプログラム化し、小学校3年生から6年生までが、段階的に善福寺川を学習する体制が整った。
善福蛙と子どもたち、市民による夢水路事業
風致協会が解散した年に、新たな組織が善福寺川に立ち上がった。「善福寺川を里川にカエル会(通称:善福蛙)」である。「善福蛙」は「東京の川を里川に変えると日本が変わる」ことを目指し、2011年にプロジェクトを開始し、2013年に立ち上げ集会を行った。メンバーとしては、地域住民、学校関係者、市民組織、専門家、研究者、編集者、学生など、多様な参加者から構成されている。筆者もそのメンバーの一員である。
善福蛙は、善福寺川や周辺の公園、公民館、学校などで、フィールドワークやワークショップ、シンポジウムを開催し、上流から下流まで流域全体で善福寺川の里川の姿を市民と共に考える機会を生み出している。また、善福蛙のロゴがデザインされたTシャツ、パンフレット、ノボリなど、統一されたビジュアル展開を行い、公園で善福カエルカフェを開催するなどソーシャルデザインの文脈でも活動を行っている。
井荻小学校の川学習に善福蛙のメンバーが出張授業を行い、井荻小学校の川学習プログラムの一部を善福蛙が担当することとなった。善福蛙は、善福寺公園内水路に関して、子どもたちと一緒に理想の姿の模型をつくったり、野川など他の川の再生事例を共有したりし、水路の将来像のイメージを共有していった。小学校の川学習の中で、公園内の水路に関する夢の絵を生徒が描くという授業を行い、2014年7月、その絵を杉並区長に4名の生徒が直接プレゼンテーションを行った。区長は生徒たちの声を受けて、杉並区総合計画の見直しに取り入れることを約束し、「みんなの夢水路」事業が決定した。
その後、杉並区主催の2015年の基本計画ワークショップにて地域住民とともに実際のデザインが検討され、2017年には市民による維持管理組織として「遅野井川カッパの会」が誕生し、区と管理協定を結んだ。
地域のよきハビタット(居住・生息空間)ビジョンを継承する
善福寺公園上池の一角に内田秀五郎の銅像がある。銘板には、
「年三十にして衆望を担って全国一の年少村長となる
爾来多年一日の如く終始渝らす説意自治の為めに生き文化の為めに生涯を捧ぐ
人悉く其の徳を仰ぎ其の思恵による常に百年の計を樹て千年の後を慮る」
と東京都知事・安井誠一郎により刻まれている。
大正末期から昭和初期にかけて行われた区画整理事業と風致地区の取り組みは、内田秀五郎という地域の篤志家が生み出したビジョンに寄るところが大であった。善福寺が東京杉並区の有数の良質な住宅地になったのはその功績だろう。その百年の計は見事、80年後に受け継がれ、善福寺公園の水路は子どもたち、市民によって描かれたビジョンによって、さらにまた新しい生命が吹き込まれることになった。日々の暮らしの中で、遅野井川親水施設を訪れる住民は多く、地域住民にとってまたひとつ豊かな風致が身近な居住環境 −ハビタット− の中に加わったことになる。
先代のビジョンを継承し、新たなビジョンを地域住民が共に描き、次の世代に風景として残していく。そのサイクルの中に、持続可能な地域の風景と人との関係があるのではないだろうか。