住居にレインガーデンを持つ
滝澤 vol.5でお話したゴワナスの事例を参考にして、日本で何ができるのかを考えてみました。水循環を再生する集合住宅のアイディアです。例えば、三階建てのRCマンションに雨水を利用した屋上ガーデンがあり、そこにハーブや植物が植えられていきます。ガーデンをつくることで、夏は建物全体の室温を下げるのに貢献して、住人同士のコミュニティの場としても活用されます。
さらに屋上に雨水タンクを設置すれば、降った雨をタンクに貯めてそれぞれのフロアでのガーデニングや植栽の水やりに使えます。それは防災用水にもなり、災害時にはトイレに使ったりできる。住居に水循環の再生を組み込むことで、人が暮らしやすい居住空間とアメニティが実現できるという仕組みです。
滝澤 地上1階の設備でいうと、レインガーデン(雨庭)はこれから日本でも注目されていくかもしれません。雨水を一時的に貯留して、時間をかけて地下へ浸透させる透水型の植栽スペースです。雨どいをカットして、その水を下水道に入れずに自分の庭で使うカルチャーで、DIYでもできるので海外ではかなりポピュラーなんですよ。
滝澤 効果としては、雨水が水路や川に段階的に運ばれて、洪水の抑制になるし、都市に水の浸透面積が増えることで、帯水層に水が供給され湧水が再生されます。湧水によって水質が上がれば、そのエリアの生態系が豊かになり、子どもたちが川で遊べるようにもなります。
ひとり一本、木を持つ
滝澤 さらに小さなアイディアですが、家の前に高さ5m以上の高木があると、気持ちのいい住居空間ができるんですよ。夏は日陰をつくって涼しく省エネです。
馬場 いいですね。ひとつの家がひとつの大きな木を持つ。個々がそのくらいの感覚で都市の自然に関わることに可能性を感じます。もし自分の家に大きな木があれば、この木は自分の木だから大切にしようと思う。神木という単語に象徴されるように、日本人にはそういった感覚がありますよね。自分の木の成長にもつながるから、各家庭でレインガーデンをつくろうといったムーブメントもありえそう。
滝澤 個人が木を持つことが浸透していけば、DX(デジタル・トランスフォーメーション)も積極的に取り入れて、グリーンインフラのデーターベースとして、市民それぞれが登録した木を集合的に計量して「これだけ土の中に入ってくる水の量が増えた」とか「これだけ都市が涼しくなった」とか、可視化できるツールができたらいいですよね。一つひとつでは実感しにくいけど、集合的に見ると違いがわかることもあります。
馬場 数値的に証明することで、行政の反応も得られるかもしれませんね。
街もエネルギーも排水設備も「自律分散型」へ
滝澤 樹木の活用といえば、屋敷林にも注目しています。武蔵野台地や埼玉の郊外にはかつてたくさんの屋敷林がありました。最近では、相続税で分割されて建売に変えられ伐採されているのがとても残念ですが、屋敷林をうまく取り入れたまちづくりができる気がしています。
例えば「屋敷林ハウス」というアイディア。屋敷林が相続される時に、小さなデベロッパーが買い取ってそこに集合住宅をつくり、カフェ、ワークスペース、コミュニティーセンターなども併設して、地域に徒歩10分でアクセス可能な拠点があるような暮らし。前回(vol.5)の話にも通じますが、そのような地域で、地主と若いベンチャー精神を持った人が組んでコンサーバンシーの主体となっていく。屋敷林もそういった会員制メンバーで楽しみながら手をいれて、地域ににじみ出すグリーンスペースとしての「まちにわ」になっていきます。
馬場 徒歩10分圏内は心地いいスケール感だし、コンサーバンシーの活動が浸透しやすそうですね。
滝澤 一般的に都市はどんどん郊外に広がってしまうのですが、近隣住区論ではまちの中心地から徒歩圏の400m圏内に5000人ほどが住むくらいがちょうどいい、という見解があります。
さらに中心市街地の活性化というと、駅中心に集約的な高層ビル的コンパクトシティをつくる傾向がありますが、むしろ地域全体の中に5000人くらいのユニットをゆるやかに分散させた方が、まとまったグリーンベルトとの連続性も確保でき、気持ちの良い生活ができるのではないかと思います。
このあたりはカリフォルニア大学バークレー校のランドスケープ学科名誉教授のランドルフ・T・ヘスターが『エコロジカル・デモクラシー』で都市の密度と範囲について興味深い議論を展開しています。
馬場 自律分散化というわけですね。
滝澤 自律分散化のためにはインフラにもある程度ローカルな持続可能性を持たせることが必要で、そこで活躍するのがグリーンインフラだと思います。
馬場 この100年は中央集権化したいという欲望を人間は強く持ちました。エネルギーや雨水排水、給排水のインフラも同じだと思うけど、その最たる結果が共産主義でした。全体幸福のため、合理化のために発明されたはずの共産主義が、結果的に中央集権に繋がり、事実上、政治体制としては崩壊してしまった。
日本も比較的、民主主義国家の中では社会主義に近いと言われていて、電力会社も8つに集約したし、給排水衛生も全部インフラでまとめて整えようとした結果、あらゆる汚水、雑排水がある一定のフローを超えた瞬間に川や海に流れこんでしまうことに。コントロールの限界を超えているわけですよね。
産業も同じです。20世紀をけん引したのは大企業だったけど、次の時代はベンチャーのはず。中央集権型の大企業からは次の時代にフィットするクリエイティブは生まれにくく、自律分散型の小さな組織からこそイノベーションが起こっている。
滝澤 エネルギーもインフラも産業もみんな同じような段階にある気がしますね。
馬場 そうですよね。自律分散型の風潮がまちの風景にも現れてくるべきで、それを象徴化していく都市が次の時代を引っ張っていく気がします。
滝澤 そういった風景をつくるには、どんな方法があるでしょうか。
馬場 例えば、小さくても自分ですぐやれるようなブームをつくるのはひとつの方法かもしれません。木の話に戻りますが、地方都市の中心部で街路樹がバサバサと切られているケースがあります。なぜかというと、落ち葉のクレームが来るし、管理が大変だから。だけど「自分の家や店の前はあなたの所属。あなたの木だからこの木だけ管理して」といえば、自立分散していく。
ニューヨークの公園課が「NYC Street Tree Map」といって、すべての街路樹一本づつに名前とIDをつけてデーターをとり、データベース化し誰もがアクセスできるようになっています。市民も行政も緑を総体としてではなくキャラクターとして捉(とら)えることで、愛おしくなり「あいつ、最近元気がないな」とケアしていく。そういった自然と人間個人のダイレクトな関係性を構築する街があってもいいですよね。
自然化していく郊外の風景
馬場 これからの郊外や地方都市の中心市街地の風景をイメージするとき、街の中に緑があふれているような風景を思い描くんですよね。
というのも、現状の地方都市では都市面積において駐車場率がすごく高く、どんどん街がスカスカになっている。駐車場を目的に人が街に来るわけではないので、駐車場が増えるほど街に行く目的がなくなり、土地の値段が下がり始めて駐車場もいずれ不要になる。そうすると街中で土地が余って安くなり、街中で商売したり暮らす人が「隣の土地まで買って庭をつくろうか、木を植えようか」となる。
今の郊外はとにかく家がたくさん並んでいるけど、人口が減り、いい具合に疎(まば)らになって、家々の間に空き地が生まれ始める。そうすると「隣の土地も安くなっているから買おうか」とマイツリーを植えて大きめのレインガーデンができる、という感じです。
滝澤 駐車場の地面を覆うコンクリートがめくられたら、その分都市の中に浸透できる土の面積が分散して増えていくことになり、すごく面白いですね。
馬場 そうですね。グリーンインフラ化が進みます。あとは美しくなる感覚を変えなくてはいけないと思う。芝生がきれいに刈られた庭ではなく、木がワイルドに生えて動植物がワサワサとしている庭がクールだという価値観。そこに変換していけたら、雑草がザッと生えてるところに人が歩いている中心市街地がかっこいい風景となり、地方都市の自立分散化が進むかもしれません。
滝澤 そうなると雑草や植栽も含めてその地域に合う郷土種が生えて、都市の中に四季折々の花が咲いたり、その地域ならではの風景が出現するような気がします。
馬場 そういった新しい風景を見てみたいですよね。
滝澤 やはり次の都市を維持していくシステムは、あらゆる側面で自律分散化を目指すことに他ならないのかもしれませんね。それをいかに実現していくか。この連載では引き続き世界や全国のハビタランドスケープの事例と共に、その足掛かりをリサーチしていきたいと思います。
撮影:森田純典