機能が希薄な都市空間の可能性
僕たちOpenAは、ある時期から、公園のプロジェクトを手掛けることが増えてきた。
きっかけは、10年前に出した本「RePublic 公共空間のリノベーション」(2013年、学芸出版社)だったと思う。妙な縛りや禁止事項が多い公共空間にフラストレーションを感じ、公共空間を、楽しく使いこなすアイデアを勝手に妄想し提案するものだった。
この本をきっかけに、国土交通省係長(当時)で、後にPark-PFIの制度をつくる町田誠さんと知り合ったり、パブリックをアップデートするメディア「公共R不動産」を立ち上げることになったりと、少しずつ僕の公共空間へのコミットが始まった。
2017年には、公園に面した少年自然の家を宿泊施設へとリノベーションした「泊まれる公園 inn the park」の立ち上げに始まり、分断されていた公園と図書館を繋いだ「佐賀城公園こころざしの森」(2017年)など、公園に新たな何かを掛け合わせる、PARK and ◯◯という新たなビルディングタイプを模索することが続いた。
また、住民たちでつくり上げる佐賀県江北町「みんなの公園」(2019年)、など、公園の枠組みそのものから考えていくような仕事も増え、今現在も複数の公園プロジェクトに関わっている。
日々、公園の設計をしたり、運営に関わったりしながらつくづく感じることは、公園という、寛容性が物理的に横たわっているような空間には、様々なコンテンツが掛け合わせ可能であるということだ。
しかも、そこに似つかわしいコンテンツはおのずと公共性を持ち合わせる。「オープンマインド圧」のようなものが働くのだろうか。利益を追求することに主眼が置かれるコンテンツは、なんとなく似つかわしくない。
「PARK and」について実践を重ねるうちに、あることに気がついた。
それは、都市は「公園化(PARKnize)」したがっているのではないかということだ。
結節点となる公園
最初は、文字通り、公園に何らかの機能を掛け合わせることで、その可能性を拡張させることに注力していた。
しかし気づけば、都市の中に残された様々な空地を公園、もしくは公園のような空間に変換するような仕事が増えてきた。
たとえば、「SLIT PARK YURAKUCHO」(2022年)はビルの隙間の道路を「公園化」したものだし、iti SETOUCHI(2022年)も、閉鎖された巨大百貨店の1階部分の「公園化」だ。
両方とも目的性の薄い、もしくは目的自体を失い、事実上、地図から消去されたような空間だった場所たち。そこを再生する手法として「公園」というビルディングタイプを、僕たちは無意識に選択していたのだ。なぜだろう?
そもそも公園とは、そこに居る目的が希薄でもよい場である。いい加減さやゆるさがあらかじめ許容されている。普通のビルディングタイプではなかなかない状況だ。
人通りのほぼない道路や、ましてや閉鎖された百貨店はあらかじめ目的を消失しているから、再生する手段として、やはり目的性の薄い公園は相性が良く、チャレンジのハードルも低い。だから自然とそれを選択したのだ、と最初は思っていた。
しかし、プロジェクトが完成し、今まで閉じていた場所が開くと、その空間は都市の新たな導線を生み出したり、異なったエリア同士をつなぐ結節点のような役割を果たし始めた。人の流れやゆるやかな交流が発生することにより、小さいけれども確実な商取引も誘発されている。もしかすると既存の都市の中では小さすぎて成立しないような規模の商いが、収益圧力の低い公園だからこそ可能となっているのかもしれない。
これは何を意味しているのだろうか?
例えば、道路の目的は通行である。そこを通るものが人だったり車だったり自転車だったりするわけだが、そうしたターゲットに合わせて「歩道」や「車道」としてキャラクタライズ、すなわちデザインがなされていた。ひたすら機能を分化し、通行に対する合理性を追求した近代の思考。この考え方は、百貨店であっても同じで、ターゲット、すなわちお客さんの種類によって空間のキャラクターを設定してきた。しかし今、空間と目的とターゲットを一直線につなぐ近代の価値観が崩壊している。機能主義の終焉と言い換えてもよいかもしれない。
道路に人が滞留し、小商いが一時的に集積した状態をマルシェと呼び、本来目的だった通行という機能からは積極的に逸脱し、さらに機能の混濁を進めようとしている。そうした時、そこを道路と捉えるより、「細長い公園」として捉えた方が圧倒的に都合がいい。これは道路だけに言えることではなく、前述の閉鎖した百貨店や、駅前のコンコース、人通りが少なくなったアーケード商店街にもフィットする再解釈である。
そうして改めて都市を眺めた時、それは「公園化されたがっている」のではないか、と思うのだ。
駐車場化する都市
まったく違う方向からも、やはり都市が公園化したがっているのではないか、と思うことがある。
それは、駐車場だらけになって行く地方都市の風景を眺める時だ。
このまま都市の駐車場化が進んでしまえば、その後、この街の風景は一体、どうなるのだろうか?
小さな街の中心市街地を眺めながら、こんな思いに駆られるのは僕だけではないと思う。
今、最も素直にそして安全に、いや安直に考えれば、地方都市の中心市街地の空き地は駐車場にしておくのが経済的には適切な回答なのかもしれない。実際、多くの地権者が、それを選択している。しかし冷静に考えれば、駐車場は目的地ではない。街から目的地が消えていけば当然、駐車場も必要なくなる。だから駐車場という選択は、都市を安楽死に向かわせるもののはず。人口が激減する中、こうした状況に抗えと言うのは酷なことかもしれない。
そんな街の再生を相談されても、このデフレスパイラルから抜け出す魔法のようなデザインが、そう簡単に繰り出せるわけではない。それに無力感を感じることもあった。
しかし、「公園化」というキーワードが、風景の価値観に逆転のヒントをくれた。
駐車場の後に
街に目的地がなくなれば当然、駐車場の必要もなくなる。その後、私たちは街にどんな風景をイメージできるだろうか?
ここからは、衰退の先にある地方都市の風景の勝手な妄想である。
収益手段のなくなった土地の値段は一気に下落する。
駐車場のアスファルトは剥がされ、土に戻り、うっすらと草木が根付き始めている。
安くなったそんな土地を、小さな商いも併設した住居を建てる用地として購入してみる。2階に住みながら、1階にあるのはカフェでも、本屋でも、雑貨屋でもよい。街の中の趣味的な小商い。居住が中心なので、もちろん利益は薄くても良い。楽しく暮らすための手段であり、街や近隣へのインターフェース。
駅からそれほど遠いわけではないし、周辺には古くからある飲食店が、まだちらほらある。結局、残っているのは家族経営の小さいけれどキャラの立ったコンテンツなのだ。
購入した敷地はちょっと広めなので、大きめの木を植えてみる。余った部分はパブリックに開放。庭と言うより、小さな公園の中に家を建てるような感覚だ。そこを近所の人が子供や犬と一緒に散歩している。自分の土地の一部だけれど、適度な距離感がそれを許容する気持ちにさせてくれる。
天気のよい夕刻にはオープンエアで夕食をとる。時折、通りすがりの近所の人が食卓に混ざって賑やかになることもある。もはや、自分の所有空間と公共空間との境界は、積極的に曖昧になっている。
コロナを経て、在宅勤務や副業などが一般化したことで、仕事と暮らしの境界も曖昧になった。そんな人々が、周りに1カ所、また1カ所と購入し、暮らし始める。境界の曖昧な都市空間の中に、ぽつりぽつりと建物が立ち始める。疎密で言うと、「疎」な家並み。その間には、植物や樹木が生えていて、自分の庭の管理はもちろん自分自身で。歩くと気持ちよさそうな小道がなんとなく連なり、ひとつのエリアの風景をなしている。
そんな風景を想像してみて欲しい。まるで公園の中で暮らしているようではないか。
駐車場化した後に、街は、公園化し始める。
衰退する街の風景の変化に対しては、それを悲しいことと捉えずに、普通にやってくることとして捉えるのは適切だと思う。人口が半分になっていくのだから、それは当たり前。それを無理に食い止めて、賑わいの復活や活性化を掲げたところで、実現する可能性が低いことは既にみんな知っている。だとするならば、「疎」になってゆく街の風景を、悲しみや衰退の象徴として捉えずに、未来の街の新しい美学だと捉えてしまった方が手っ取り早いし、現実的だと思う。
それを、「衰退する都市」ではなく、「公園化する都市」と呼んでみる。
ちょっとハッピーな気分になれるんじゃないかな。
***
公共R不動産では、今後、「PARKnize」と題した連載を立ち上げ、さまざまな事例を通してPARKnize(公園化)の概念を掘り下げていく予定です。ご意見などもぜひお寄せください。
9月19日発売『パークナイズ 公園化する都市』(学芸出版)
テーマは「PARKnize=公園化」。今、人間は本能的に都市を再び緑に戻す方向へと向かっているのではないだろうか、という仮説のもと、多様化する公園のあり方や今後の都市空間について考えていく一冊です。
Amazonの予約、購入はこちら
https://amzn.to/45PDUa3