今回取り上げる本は……
もんじゃの社会史 東京・月島の近・現代の変容
著:武田尚子(青弓社、2009年)
【書評】
「月島もんじゃ焼き」と言えば、もはや東京を代表する食の観光資源として不可欠な要素となっている。本書は「もんじゃ焼き」を切り口にして、マクロとミクロな視点から月島の空間構造の変化を追いつつ、同時にローカルな社会構造の変化を論じている。
本書では近代都市計画のような計画的な発展ではなく、都市構造という大きな空間構造から、ひとりの商人が店を開くという小さな空間構造の変化、食材の流通ネットワークや人材の流入過程、人と人との関係性といった社会構造の変化が、予定調和的ではない月島の面白さを生んでいるということが、社会学的、文化人類学的な視点で生き生きと描かれている。
ストーリーは月島が埋め立てられた1887年以前に遡る。もともと隅田川の干潟であった月島に大坂から摂津国の佃村・大和田村の漁民が移住し、佃島と名付けて住み着き、漁業を開始したのが始まりである。近接した石川島造船所(現在の株式会社IHI)関連の中小零細企業の集積もあり、工業従事者を中心に人口が急増していった。
月島の住民たちは生活物資の調達や娯楽の享受等を、特別な時は浅草等本土のまちを利用し、普段は月島の店舗を利用した。つまり浅草はフォーマルセクター、そして月島はインフォーマルセクターという構図であった。フォーマルセクターは時を経て、浅草から銀座、丸の内と時代を経て拡大する一方で、インフォーマルセクターとしての月島は、拡大せずに深度を高めていくことになる。
月島の中心は西仲通り(現在の通称もんじゃストリート)であり、内店(建物内の店舗)と露店がお互いに気を遣いながら共存して通りを活用するという独自のルールの上で成り立っていた。露店は内店に気を遣いながら出店したりしなかったりするのだが、これにより西仲通りは、その時々で異なる様相を生み、「大人の商業空間」「大人の娯楽空間」としての多様性をつくりだした。一方、路地では超零細自営業女性が営む駄菓子屋が子どものための空間として機能し、ここで売られていた「もんじゃ焼き」は、「子どもの遊び場空間」となる。この三重の空間が柔らかく共存することが月島の空間特性となっていた。
1957年には首都圏既成市街地工業等制限法が施行され、月島含め既成工業地帯の工場が郊外へ流出することになる。その後、都市交通網の再編により、月島には地下鉄有楽町線と都営地下鉄大江戸線が乗り入れることになり、地理的に月島が臨海部の出入口に位置づけられた。このような都心の再開発事業とともに月島は製造業等従事者集住地域からサービス業従事者集住地域へとドラスティックに変化していき、ツーリズム/ツーリストのフロー構造にビルトインされていく。このような都市構造の変化の中で、新たな地域のアイデンティティを求める欲求が高まり、「もんじゃ焼き」文化の発展が始まった。
もともと「子どもの遊び場空間」であった「もんじゃ焼き」は徐々に脱皮し、「大人もんじゃ」へと進化を始める。1954年に「大人もんじゃ」の第1号の“好美家”が開業した。この創成期の「大人もんじゃ」は女性経営者が多かった。この時期にはすでに月島に近接して築地市場が開設され、多くの食品関連産業が月島にも流入していた。女性経営者が暮らしの中で築地を中心とする食品産業に触れ、「大人もんじゃ」は革新していく。1977年に開業した“錦”の女性経営者は、毎日子どもを保育園に送り迎えする時に通る明太子屋から発想し、“もちめんたいもんじゃ”を開発するに至り、子どものためのもんじゃは、「大人もんじゃ」へと進化を遂げた。
その後、もんじゃ焼きの新規参入者が大きく流入することになる。新規参入者にはスキルやネットワークを持ち合わせていない者もいたが、子ども世代のアルバイトの行き来や、キャベツや揚げ玉などの食材の貸し借りを通して、スキルやネットワークの贈与・交換が行われ、もんじゃ文化の成熟を加速させる。そして月島もんじゃ振興会協同組合が発足し、もんじゃ焼き事業者が組織として、宣伝、ゴミ処理、団体客の受け入れといった課題を乗り越えていく。
こうして過去、路地で発展した「もんじゃ焼き」は、月島のアイデンティティとして西仲通りという表舞台に押し出されることになった。子どもの遊びであった「もんじゃ焼き」は、東京臨海部の空間構造の変化と社会構造の変化の中で、生まれ、成長し、革命が起き、東京の観光資源「月島もんじゃ」に成熟し、月島の、ひいては東京の食文化の代表となっていった。
僕は、本書を読みながら、公共空間を活用したプロジェクトの評価手法の必要性について考えていた。
近年の公共空間活用プロジェクトにおいて、例えば公園プロジェクトの成功例を見て、「いい雰囲気の公園だね」、「利用者が楽しそうだね」といった主観的な評価はもちろん重要である。一方で、公共空間活用プロジェクトをさらに加速させ、プロジェクトのクオリティを全国的に高めていくことを考えると、客観的な評価手法が必要となる。
その点、本書で見てきたような「空間構造」と「社会構造」の変化と関係性が重要な評価のベースになると想像できる。「公園とその周辺環境がどのように変わったのか」、また「人々の社会構造はどのように変わったのか」。これをもって、公共空間で生じている現象が記述可能であり、評価できるベースとなるのだろう。もしかしたら、空間と社会以外の構造の変化が起きているかもしれない。これについては、今後もう少し勉強してみることにしよう。
まだまだ妄想の域を超えないが、公共空間活用プロジェクトの評価手法についてもう少し考えていきたい。このような公共R不動産研究所として、次のステップを見せてくれる一冊であった。
高松 インフォーマルセクターというとどういうイメージなんだろうか。
松田 一般的な定義で言えば、法に基づき公式な手続きを踏んで政府統計などに載ってくる経済活動をフォーマルセクター、そうでない非公式なものをインフォーマルセクターと呼んでいると思います。
矢ヶ部 僕が面白かったポイントは、「もんじゃ焼き」が通りを中心に育まれたという点でした。
食としての「もんじゃ焼き」だけではここまでバズることもなく、やっぱり「通り」という<空間>の中に<生活>があることが重要だったと思います。公共空間を読み解くことは、構造を読み解くことであるという視点の発見になりました。
松田 私も東京出身ですが、地元と月島は全然違う雰囲気があります。「もんじゃ焼き」は東京の食の名物という認識は持っていて、地方から来た人に名物を聞かれた時は「もんじゃ焼き」を提案します……というよりするしかない(笑)。私も頻繁に「もんじゃ焼き」を食べるわけではないのに、東京の名物として紹介する不思議な存在です。
確かに「もんじゃ焼き」は子どものおやつが起源のイメージで、なんとなく食べ物としてのお好み焼きと、余興としての「もんじゃ焼き」という認識でした。純粋な月島のローカルの中で生まれてきて、東京の名物に成り上がった歴史を考えると、まちおこし系の食コンテンツの源流のような気がしますね。
高松 僕は大阪出身なんですが、月島は大阪の新世界界隈と構造が似ていると思います。新世界には大量の串カツ屋やモツ煮屋があります。ここもインフォーマルセクターが中心ですが、その中で食べられていた食が、観光資源へと成長していったパターンだと思います。今では星野リゾートも進出するまでになり、観光地化しているという点でも月島との共通点がありますね。
岸田 串カツ文化が観光コンテンツになり、まち全体が観光地となると、元々の文化としては崩れるのでしょうか?
高松 感覚として元々利用していた地元の労働者の方々が新世界の串カツに通う風景は減っていると思います。隣接するエリアにある天王寺や阿倍野も昔ながらの居酒屋や赤ちょうちん街は再開発の影響で姿が消えている感じはあります。このようなインフォーマルセクターの中で生まれてきた文化の背景を紐解いた上で観光化についてもきちんと向き合って考えるべきだなと。
松田 文化の残し方って難しいですよね。これが正しい「もんじゃ焼き」ですと決めるのも難しい。「もんじゃ焼き」も移り変わりゆくことが前提の文化であるし。
矢ヶ部 公共空間活用プロジェクトを評価するとなると、やっぱりまちの「構造」の変化を読み解く評価手法が必要になるんだと想像できますが、制度や自然環境など読み解くべき「構造」は他にもありそうです。そういう高い視点での構造を読み解くような評価が必要ですね。
岸田 この本では、「空間構造」と「社会構造」を切り口としていました。矢ヶ部さんが言うように、制度や自然環境も重要な視点ですし、評価軸になりうるんだと思います。
内海 最近では、都市をひとつの生態系として捉える研究もあります。このような研究も評価手法をつくる際には参考になりそうですね。『エコロジカル・デモクラシー(Hester,Rndolph T、2018年)』が参考になるのかもしれません。
公共R不動産研究所、次回は、5月17日(水)更新!
矢ヶ部研究員によるコラム「『公共不動産データベース』担当の頭の中」#02 をお送りする予定です!
内海 僕は東京の東側の出身で、子どもの時に友達同士でもんじゃ屋に行っていたことを思い出しました。月島と同じように、明治大正期に市街化した「元郊外」で、かつては台風の時に浸水した比較的海抜の低いエリアでもあり、インフォーマルセクターの空気感があります。月島は高層マンションが林立していて、「もんじゃ焼き」というアイデンティティが必要だったという話は納得できました。