今回取り上げる本は……
『“遊び”からの地方創生 – 寛容と幸福の地方論 Part2』
発行 LIFULL HOME’S 総研(2022年)
【書評】
まちには「寛容性」と「“遊び”」が必要だ——
「都市とは、その通りを歩いているひとりの少年が、彼がいつの日かなりたいと思うものを感じ取れる場所でなくてはならない」(ルイス・カーン)に匹敵する、本質的なメッセージ。
地方創生の論点に「寛容性」と「“遊び”」を掲げるのは、LIFULL HOME’S 総研の『地方創生のファクターX – 寛容と幸福の地域論』(2021年)と、その続編にあたる本書『“遊び”からの地方創生 – 寛容と幸福の地方論 Part2』(2022年)だ。
地方創生政策が始まる2014年の『地方消滅 – 東京一極集中が招く人口急減』(増田寛也編著、2014年、中公新書)は、扇動的な「消滅可能性都市」というデータとともに、すべての市町村が人口を増やすことは不可能であることを突きつける衝撃的なレポートだった。ただ、地方創生政策が始まってみれば、地方移住という選択肢がライフスタイルとして注目される一方で、東京への人口流入は緩和することなく続いている。憲法第22条の目の届かないところで、安直な「流出を止める」「移住を促す」という言説や施策が大量に生まれ消費され続けている。
なぜ若者が東京圏へ向かうのか。仕事や雇用があれば地方から出ていかないのか。Uターンするのか。有効な打ち手が分からないまま現場は消耗する。地域おこし協力隊の受け入れに関するトラブルなども聞こえはじめ、停滞感や閉塞感も漂うようになっていた。
こうした中で、これまでの地方創生議論が見落としてきた「寛容性」に着目することを提案したのが『地方創生のファクターX – 寛容と幸福の地域論』(2021年、LIFULL HOME’S 総研)だ。
本書では、問いを「若者の転出が多いこと」とせず、「外の世界で新しい技術や知識を学んだ優秀な若者が戻って来ないこと」あるいは「生まれ故郷にこだわらず自分の能力を発揮する場所を探している若者が、その地域を選んでくれないこと」と設定し直す。地方移住の阻害要因の大きなものとして、一般的には「求める仕事のなさ、所得の低下、生活利便性の低下」が挙げられるが、本書では人口の社会増減率と地域の寛容性の相関係数が0.804であることを指摘。不寛容な地域は住む人を不幸にするという仮説を展開した。
そして翌年の続編『“遊び”からの地方創生 – 寛容と幸福の地方論 Part2』では、人々の幸福度を高め寛容度を高める“遊び”のチカラに着目し、「“遊び”からの地方創生」を提言している。
本書では、まず東京の暮らしから若者が離れない要因のトップが「質の高い遊びや余暇が楽しめる街」であることに着目する。「東京へ出てきた地方出身の若者がUターンをしたくないのは、雇用の問題だけではなく、地方に余暇や消費の楽しみが少ないことも大きな要因」。これは、地方に仕事があっても「“遊び”」がなければUターンしないということを意味する。「地方から東京への往路では雇用や進学が決定的な要因となるが、東京から地方への復路(Uターン)においては雇用環境単独での人口引き戻し力はあまり期待できない」。
「“遊び”からの地方創生」は、地域住民の娯楽やレジャー、文化・芸術にかかわるアクティビティがいかに豊かになるかに照準するよう提言する。「人々が外に出て、人に会って、遊びたくなるような機会を作り出すことが重要である」。“遊び”は地域の生活文化を美しく育み、その文化に共感する人を引きつける。洗練された情報発信による地域のブランディングが有効だ。そして“遊び”は地域のすきまに隠れた資源を発掘し、地域産業にイノベーションを促す。
地方創生政策で「“遊び”不足」に向き合ったものはなかなか見当たらない。現場はストイックな政策の実施とKPIに疲弊している。地域の生活を楽しんでいないものが、地域の幸福を考えることなどできない。地方創生にかかわるものほど率先して地域で遊ばなくてはならない。本書は地方創生現場への「“遊び”のススメ」でもある。
ここで“遊び”を引用符付きで表記しているのは、余暇活動だけでなく、精神的・心理的なもの、余白や隙間も含むという意図をあらわしている。
そもそも“遊び”は強制されるものではなく自主的なものだ。そして私たちはこの数年で嫌というほど、“遊び”のない世界は息苦しいことを体感した。自主的な試行錯誤や挑戦を受け入れる風土は、あなたがあなたのままでいいのであるという「寛容性」と一体的なものでもある。言い換えれば「暮らしの選択肢」が多様であり、自分の関わる余白や居場所があるまちに、人は集まっている。
そして先日『地方創生の希望格差 – 寛容と幸福の地方論 Part3』が発表された。前2作を軽く超える重厚なレポートとなっている。まだ紹介するには読み込みが足りないが、冒頭の言葉にひとつ要素を加えることにする。
——まちには「寛容性」と「“遊び”」、そして「希望」が必要だ。
この夏、唐津にトライアル移住していたけど、海と山との距離もコンパクトで、神社ごとに花火のあがる祭りがあったりと、多様な楽しみがあるまちでした。ファミリー層の移住も多く、新旧住民間のいざこざも聞かない。どんな地域でもその地域らしい遊びを見つけられればいいんだけど、地方の方が余白もあって実は見つけやすいのでは?とも思った。
夏目漱石の講演で「道楽と職業」について触れていて、仕事というのはひとのために行う「職業」と、自分のために行う「道楽」とがある、と。この切り口は、「労働」と「余暇」、「生産」と「消費」などの二項対立で考えがちな近代的な価値観を破ることにもつながる気がしていて。漱石はどちらが重要とは言っていませんが、個人的には「道楽」としての仕事こそ地方に必要だと考えています。本書の「“遊び”」の考え方はこの「道楽」に近い気がしました。
私が研究対象にしていた「遊戯道路」というのは、その名の通り「遊び」のための公共空間でした。最初は狭い意味の「子どもの遊び」のためにできたものですが、一部は今では広い世代や立場の人がやってみたいことを試してみる場、もっと広い意味での「遊び」を実現する余白になっていたりします。でもそれは、余白が少ない都市だからこそ人が集まって輝いて見えるような面もあって、逆に地方だと、余白がたくさんありすぎて、かえって可能性が見出せなかったり、人が分散してしまうこともあるんじゃないかと思っています。
遊びのリソース、内海くんの言うところの「余白」は限りなくあっても、実際に遊ぶ、遊びたくなる発動条件はまた別にあるような気がしますね。秋田県五城目町にある「ただのあそび場」は、ワクワクして没頭してしまう=“プレイフル”であることを重視してつくられ、運営されています。そして五城目町全体にもプレイフルな空気が伝播し、大人もこどももチャレンジする人が増えています。周りに取り組む人が多いと、自然と取り組み始めるハードルが下がる。スタートアップ界隈でよく言われることにも重なると思いますね。
確かに僕の知っているある地域でも、自分で選んで「これをやろう!」と地域に入ってきた人がロールモデルになって、また人が集まってくる流れが生まれていますね。
難しいのは、意味がなくて役に立たないものが「遊び」なので、これを計画的にやると遊びではなくなってしまうこと。地方創生で「“遊び”が必要!」と掲げたても、またKPIを決めて生産性や意味を問いはじめかねないのがなんとも(苦笑)
地域を選ぶことについても自発的であるところが大事で。「愛郷心」がその土地と自分を結びつけてアイデンティティにつながるけど、これも安直な美しいスローガンになりかねない。自分と場所との関係をつくる“遊び”が鍵になるのかもしれませんね。
先日発表されたばかりのパート3『地方創生の希望格差』でも、「地域の希望」を高める環境要因に「地域に好ましい変化が起こっているという実感(特にまちとひとの変化)」「ロールモデルとなる存在」「生活の満足度(特に働・住・遊の充実)」が挙げられていました。最も強い要因が「政治行政への信頼度の高さ」であることにはとても驚きましたが。パート3も是非また取り上げたいです。
地域に遊べるコンテンツが多くてもそもそも遊べる余裕が持てるか?という面では、働き方の影響も大きそう。在宅ワークなど柔軟な働き方が定着してきたまちでは、金曜日から連休にしてしまう人も増えたようです。仕事終わりに飲んで帰るのが木曜日に変わって「花金」が「花木」になってる、なんて話も聞きました。働き方が変わると時間の使い方が変わり、遊びも含めて暮らしが変わるとまちが変わる。