今回取り上げる本は……
『チームの力 – 構造構成主義による“新”組織論』
著者 西條剛央(2015年)
【書評】
まちはトラウマだらけ。そう見えることがたびたびある。
特に「ルール」にその痕跡がある。例えばたびたび話題になる、禁止事項だらけでベンチに座るくらいしか選択肢が残されていない公園。あるいは、道路との境界線から建物の壁が一定の距離をあけて後退(セットバック)したものの、デッドスペースとして取り残されたままの細長い空地。
僕たちはこんな空間にしたかったんだっけ?
ある状況において一定の目的を達成するために決められた方法としての「ルール」が、目的とは異なる不利益を生み出してしまったり。当初の目的も意識しなくなるほど時が経ち、状況も変わり、誰がこの「ルール」による利益を享受しているか見えなくなってしまったり。あるいは、ある特定の人たちへの配慮が強すぎる「ルール」により、地域全体ではバランスの欠けたように見える状況が生まれてしまったり。
こうしたちぐはぐな状況を外から見て、失笑したりダメ出ししたりしても、それで何かが変わるわけでもない。利害の関係する当事者になり、自身の利益が損なわれるような状況になったら、ちぐはぐな「ルール」を自覚しつつもこれを支持してしまうかもしれない。その立場になれば理解できなくはないし間違っているわけでもないけれど、別の立場になると受け入れ難いと感じることは多い。
こうした構造的な対立を生み出しがちな「ルール」は、まちの心の傷跡のように見えてくる。
一方で、この対立構造の枠の外側から、思わぬ形で状況を解消する変化がやってくることがある。
例えば公園で遊ぶ子どもの声がうるさいと感じるケース。つい公園の遊び方を縛る方向で対応を考えがちなところ、公園周辺の住宅が高気密高断熱に改修されると自ずと遮音性も高まり、外部の音も気にならなくなってしまうということが起こる。公園でのルールやマナーの是非を問うても平行線でしかなかった対立構造が、住宅性能の向上という一見関係のない要素から、状況を解決する糸口が見つかる。
ある状況下では有効であった方法が、状況が変化することで有効ではなくなる。別の方法で当初の目的が実現できるなら、意味を失った「ルール」を定め守り続ける必要はなくなる。
こう着状態に見える構造的な対立も、是か非かではなく、なぜそうなったのか?当初はどういう目的や思いを持っていたのか?というところまでさかのぼり、現在との状況の変化を丁寧に紐解くことで解けることがある。互いに異なっていたのは関心の所在や状況の認識であって、目的や思いは一致していたということも多い。
こうしたことが日々いたるところで起きている。
…といったことが書かれているわけではないのだけれど、こうしたことを上手に考えるための「視点」を得ることができる書籍を紹介したい。
本書は、僕が前職で再開発事業のコーディネートや経営企画に関わる業務を担当していた時に、バイブルにしていた本。本屋にいけばビジネス書や哲学書の棚に置かれていて、まちづくり分野に置かれることはきっとない。ただ、現場において本書に書かれていた原理に頼ることは多く、実践に耐える有効な視点であると実感している。
もちろん、ステークホルダーの多い公民連携分野においても実践的で有効な視座を与えてくれる。
本書には、構造構成主義(人間科学においてありがちな信念体系どうしの対立を克服し、建設的なコラボレーションを促進するための方法論・思想・メタ理論)に基づき、お互いを認め合うための礎としての原理が書かれている。「方法の原理」「戦略の原理」「価値の原理」「人間の原理」などの中から、ここでは「方法の原理」「価値の原理」に触れたい。
方法の原理:方法の有効性は状況と目的に応じて決まる。
方法が有効かどうかは、解決されるべき課題(目的)と置かれた状況により変わる。従来の方法が有効でなくなったのは状況が変化したためであり、また状況の変化により目的も変化する。つまり、従来の方法は、状況のみが変化したときは有効性が失われることもあるが、目的が変化するとまた有効な手段となる可能性もあるということ。
価値の原理:人間は関心に応じて価値を見出す。
あらゆる価値は目的・関心・欲望に相関して立ち上がる。つまり何に関心があるかにより、世界の見え方、状況の認識は変わる。ある人にとっての「よい」が、必ずしも別の人にとっての「よい」とはならないのは当然のこと。人は見たいものしか見ないものだ、では何の解決にも結びつかないが、互いに何に関心があるかを辿ることで、互いの目的を実現するための有効な方法を探すことが可能になる。
これらの原理は、「それさえ知ればすべて改善される」という万能薬ではないけれども、原理を踏み外して失敗することを避ける上で役に立つ。ある特定の状況で有効だった手段を数多く知っていても、結局今この状況において有効な手段をしっているとは限らない。本書に示された原理に立ち戻ることで、手段の目的化や無用な信念対立を避けることができると思うのだ。
>研究員のアディショナルノート
「災害は社会のトレンドを加速させる」と言いますね。
目的と方法をはき違えると本末転倒になりますね。政治的な場面でも、事故が起きたときに少しでも危険があることをすべてを禁止するような、思考停止ともいえる過剰な条例をつくったり、絶対反対にこだわるあまり、妥協点となりえてかつ現実的にましになるような修正案が身内側から阻止されてしまったりということがあるように思います。
矢ヶ部さんが事例として出されていた公園の音と窓の性能の話は、確かに!と思いました。空港から離発着する飛行機の騒音対策には補助金が交付されたりするのに、公園の子どもの声だとこうした物理的な支援策が取られず、人の行動を抑えようとしますよね。人の行動の自由を守るためにどうするかの議論に発展すればおもしろいのですが。
日本だとこうした公園内での子どもの騒音の話はありがちですが、ロンドンだとどうでしたか?
聞いたことはないです。子どもが優先され、元気なことはよいことだという価値観が社会に共有されている感じがあります。もちろんいろんな人はいるし、隣室からうるさいとクレームをもらうこともありましたが、行政問題に発展するようなことはありませんでした。
逆にロンドンでのあるあるの信念対立はありますか?
日頃から宗教や人種などの大きな信念対立があり、ご近所でのゴタゴタとは違う感じです。キリスト教徒とイスラム教徒では価値観も作法も異なるのが当然で、隣の人は違う人ということを前提していると思います。
そのような社会で生きている人は、ある意味「価値の原理」を当たり前に持っているのかもしれないですね。比較的同質性が高いとされる日本では、隣の人は同じ常識を持っていることが前提だと思っているがゆえに、そこから少しでも外れると公共空間でのトラブルに発展する、というような面があるんでしょうか。
例えば生活保護なども、必要としている人にどう届けるかという議論より、不正受給をどう防ぐかみたいなことを重視してしまったり、本質的な目的からずれたところに議論が行ってしまうことがあるように感じます。
「方法の原理」が必要な場面ですね。この例に限らず、社会問題を「方法の原理」「価値の原理」に切り分けるとわかりやすいし、課題を複合的に解決する方法論が見えてくるのかな、と。公園の話でも 騒音問題を単一の課題と捉えると、人の行動を禁止するという方法が選択肢に出てくる。ここに「人が健康的に暮らせるまちにするには」というテーマを置いて、住宅の断熱省エネ性能の向上という課題を重ね合わせると、騒音問題もクリアしてしまう。このように課題と対策を1対1で考えるのではなく複合的に重ね合わせることが重要なのだと思っています。こう考える時に「方法の原理」「価値の原理」は考える視座を与えてくれると思います。
著者の西條さんは震災復興の支援活動の経験に基づいて、この著書を書いたと聞きました。僕も震災復興の仕事に関わっていた時、通常は30年のスパンで起こるまちのトラブルが半年ほどに凝縮して起こることに驚きましたが、こうした状況に身を置くからこそ強靭な原理が生まれることに納得感があります。