公共空間を地域に開く、とは
私事ですが、子どもが小学校に入学しました。入学式で「本校は、地域に開かれた、地域とともにある学校づくりをめざしており…」と聞き、ふむふむ良いではないか、と思いかけて、ふと、「地域に開かれた」ってよく聞くけれど、具体的にはどういうことなんだろう、と思い至りました。
ご存じの通り、私たち公共R不動産は、「公共空間をオープンに」をモットーに掲げて活動してきました。2010年代初頭、禁止事項ばかりで誰にも使われない公園や、行政の手続きの中に閉ざされて有効活用されない遊休公共施設を、もっとなんとかしたい、という思いではじまった公共R不動産ですが、気づけば学校はじめ、病院、福祉施設、文化施設などを、地域に開かれた場所にしようという試みが各地で見られるようになりました。
あえて言うからには、もとは閉じている
「地域に開かれた○○(空間名)」というからには、その空間が、元来クローズドな場所である、と考えられている必要があります。児童・生徒や患者、来所者など特定の人のための場所や、目的性の高い場所は、公共施設であっても、通常その「特定の人」のために設計されています。そうした施設を、当初想定していた利用者以外の不特定多数も使えるようにしよう、日常的に使わないまでも、なんらか関われるようにしよう、という取り組みが、「地域に開く」ことなのかもしれません。
開かれているとは
では、どんな状態であれば、開かれている、といえるのでしょうか。具体的な取り組みを見る前に、ちょっと考えてみましょう。
・施錠されていない、段差がない、など物理的な障壁がない
・入場料が無料、または安いなど経済的な制約がない
・心理的な障壁を感じさせない
・交流イベントなど、そこを訪れるきっかけがある
・カフェや店舗など、日常的に訪れることのできる別の機能を有している
・その場の運営方法などに意見を言ったり参加したりすることができる
開く、とひとことで言っても、様々なレイヤーがあり、開いている期間も様々ありそうです。
地域ってだれのこと
地域に開く、といった時、「地域」には誰が含まれているのでしょうか。ここからは、私の住む品川区の学校を例に考えてみたいと思います。
品川区の学校では、地域に含まれるものとして、高等学校・高等専門学校・大学/商店街/公共機関/町会・自治会/保護者/地域住民/グループ・サークル/企業・NPOを挙げています。地域として想定されている人が、近隣に住む地域住民だけでなく、企業や他の教育機関も含めた、幅広い層とされています。地域だけでなく、まちに/市民に/社会に開く、といった時に目指しているものとも近そうです(現行の学習指導要領では、「社会に開かれた教育課程」が掲げられています)。
地域に開くと、何が良いのか?
品川区では、地域とともにある学校づくりを目指し、2016年度から2018年度にかけて、全小学校・中学校・義務教育学校を品川コミュニティ・スクールとして指定しています。
コミュニティ・スクールとは、文部科学省が推進する、「地域とともにある学校づくり」(学校と地域住民等が力を合わせて学校の運営に取り組むこと)を進めるために、保護者代表や地域住民からなる学校運営協議会を設置した学校のことです。
コミュニティ・スクールがめざすこととして、「保護者、地域住民、学識経験者等が学校運営に参画することで、学校と地域住民が一体となって、継続性を保ちながら、教育活動の改善や児童・生徒の健全育成に取り組むこと」、また、「地域全体で学校教育を支援することで、学校の教育活動の充実を目指すとともに、地域の人材の有効活用や地域の教育力の活性化を図ること」が挙げられています。つまり、こどもたちにとってはより豊かな学びの場が、地域にとっては、人材の有効活用や地域の教育力の活性化が期待されています。
現在、コミュニティスクールは全国で4割を超え(※2021年時点)、その成果にも注目が集まりつつあります。地域が関わることによる教育上の効果は、様々な研究により明らかにされています。たとえば、地域の人と社会関係資本を築くことは、子どもの主観的幸福感だけでなく、自己効力感に対しても正の影響を及ぼすことが明らかになっています(参考文献より)。
一方、地域への波及効果は「活性化」といった抽象的な概念で語られがちです。小学生が地域の特産物を商品化した事例や、小学生が地元の観光ツアーを考案しガイドも務めた事例など、地域経済の活性化に資したといえる事例もありますが、売上などで測れない多くの取り組みの効果は、どのように測定したらよいのでしょう。
そもそも、地域に開くって、何がよいんだっけ?ということから、改めて研究所メンバーで考えてみたいと思います。
参考文献:岡政寛子・田口豊邦(2012)子どもの発達に焦点を当てた地域の役割―子どもの認識するソーシャルキャピタルの測定から」『川崎医療福祉学会誌』21 巻2 号 pp.184-194
背景にある地域の衰退と新たな担い手への期待
学校の文脈でいうと、新自由主義的な規制緩和や民営化を進める流れの中で、教育政策もその影響を受けて、2004年に海外の公設民営の学校制度などを参考に、コミュニティ・スクールが制度として導入されました。当初は制度ができただけであまり使われなかったようですが、人口減少により廃校も増えていく中で、学習指導要領でも「社会に開かれた教育課程」が掲げられ、2017年には法律が改正されて設置が努力義務化されました。
一方で子育て支援や福祉、まちづくりなどの分野では90年代後半以降、市民の自主的な草の根活動が数多く生まれ、国としても「新しい公共」として、行政だけでなく市民やNPO、企業などが積極的に公共的な財・サービスの提供主体となることを推進してきました。
社会環境や経済環境の変化に応じて、学校に求められる役割が増えていく中で、学校だけでは担いきれないので地域や市民と協働しよう、というのは、大きな文脈では、行政だけでは立ち行かないから民間と、という公民連携が推進されてきた流れと同じなんですね。
大学改革でも、平成19年の学校教育法の改正の中で、大学の目的に社会貢献を追加し、多くの地方大学が地域のニーズに応える人材育成や研究、活動の実施、生涯学習講座の開設を推進する流れになっていますよね。特に平成28年からは地(知)の拠点大学による地方創生推進事業を実施しその流れを加速させようとしています。
誰のために開くのか
今まで、「地域に開く」という言葉を安易に使ってきたかも、と反省しました。誰のために開いているのか、については、きちんと考えないといけませんね。外の人が入りたいのか、中の人が入ってきてほしいのか。
コミュニティ・スクールという名称もそうですが、「コミュニティ」と名が付くものが増えている印象がありますよね。コミュニティ・バンク、コミュニティマネジメント、コミュニティビジネス……社会のコミュニティへの渇望を感じるというか。
コミュニティ・バスのように、「コミュニティ」という言葉が、地縁と限りなく近い、地域コミュニティと同義で使われていることも多いですね。
本来コミュニティには、地縁・血縁のものだけでない、例えば任意のテーマ型で集うコミュニティもあるのかなと思っています。私の暮らす豊島区で開催されているトークイベント「としま会議」では、地縁とテーマのハイブリッドでのコミュニティ形成を目指しているような印象があります。
社会関係資本でいうところの農村型/ボンディング型と、都市型/ブリッジング型のつながりの両方を対象としているということですね。コミュニティの崩壊が叫ばれますが、崩壊しているのはコミュニティの概念なのかも。
かく言う僕も、「誰のために開くのか」という問いに対して、曖昧なコミュニティという答えを使ってきてしまいました。なんとなくコミュニティと言っておけば話が通りやすいというか……、猛省を込めるならば、コミュニティを使うことで中身を問われず許される免罪符的なものとして利用していたのでしょう。何を開くべきなのか、どの部分を開くべきなのか、誰に開くべきなのか、どのように開くのかを捉え直さないといけませんね。
学校を開くことのむずかしさ
さいたま市で、チャレンジスクールという、放課後や土曜日に地域住民や企業と協働して交流・学習・スポーツ・文化活動を行うプログラムがあります。実行委員会を学校ごとにつくって、コーディネーターを配置し(元校長先生など)、事務局は民間委託でやっているのですが、ボランティアの高齢化・プログラムのマンネリ化、活動が属人的にならざるを得ない・後継者を見つけられないといったことが課題になっています。地域に開く時の担い手側の負担もありそうです。
プログラムには直接関わらないかもしれないけれど、先生の仕事が増える懸念もありますよね。
「開く」と言っても、地域と繋がった教育をするためのより積極的な「開く」と、いつでも参観できるような開かれている状態という「開く」とでは、関心もやり方も変わってきますね。開いたことでクレームが増えたり、相互協力のはずが、相互監視になってしまったら元も子もないですもんね。
建築的な観点では笠原小や加藤暁秀小、打瀬小、美浜打瀬小に代表されるオープンスクール型の学校建築の登場による地域への開放と、池田小事件を出発点にする学校の過度なセキュリティ化=閉鎖化という二軸があります。特に、池田小事件以降、ゲーテッドコミュニティへの懐疑が広がり、集合住宅におけるセキュリティのあり方、コミュニティのあり方の議論に広がりました。池田小事件という大事件を経験した日本の学校においては、セキュリティと地域へ開くことのバランスをどこに置くのか、あの事件をどう乗り越えるのか、議論になるのかなと思います。
学校ならではの課題や学校への期待が沢山あるからこそ、複雑な話になってしまうけれど、まずは図書館や文化施設など、学校以外の公共施設を地域に開く意義を考えてみてもいいかもしれないですね。
学校側のスタンスによっても射程とする地域が違いそうですよね。いつの間にか地域に開くことに妄信的になってきている私たちもいる、という自戒も込めて、もっと考えてみたいです。北海道・安平町の学校が地域にひらく取り組みを進めているということで、関心があります。
他にも、徳島県・神山町の高校・高専でも校オープン化の試みが進んでいるようです。他にも色々事例がありそうなので、追いかけてみたいですね。
まだまだ深堀できそうですね。引き続き、こうした公共施設を地域に開くことの意味を、事例などを参照しながら、考えていきましょう。
地域に開くという言葉、確かによく聞くけれど、背景には何があるんでしょう?