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公園経営の温故知新/井下清の哲学とまなざし 昭和初期の東京は公園経営の世界最先端だった?

自身も公民連携を専門領域とし、「公務員ほどクリエイティブな仕事はない」と語る宮本研究員。その背景には、初代・東京都公園緑地課長で、明治から昭和にわたる東京の公園緑地の発展に生涯を捧げた井下清の存在があるとのこと。今でこそ、ホットな話題となった「公園経営(パークマネジメント)」ですが、それがすでに昭和初期の東京に取り入れられていたことをご存じですか?今回は、公園経営のレジェンド、井下清について掘り下げます。

昭和初期の東京は、公園経営の最先端?!

4月から公共R不動産にジョインした宮本恭嗣です。

僕は、これまで官民双方の立場から、公民連携に携わってきました。
多くの公民連携事業の発端は官側にあります。そして、法令や制度等のルールをつくり、変えることができるのも官です。そのルールの使い方や解釈次第で事業の成否や質が大きく変わります。民間は、官がつくったルール(行政計画や募集要項・審査基準も含む)の上でクリエイティビティを発揮することになるので、官側の組織、ひいては担当職員の想いや力量が問われることにもなります。

そう考えると、公務員ほどクリエイティブな仕事はないと思っているのですが(これについてもいつかコラムを書きたい)、そう思わせてくれたのは、今回取り上げる初代東京都公園緑地課長で、明治から昭和にわたる東京の公園緑地の発展にその生涯を捧げた、井下清の存在を知ったからです。

井下清(1884〜1973)

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パークナイズ 公園化する都市』の出版や、Park-PFIの広がりなど、「公園」に注目が集まる今こそ、未だに色褪せない井下清という人物の偉業・哲学を、より多くの方に知って頂くよい機会だと思い、彼の公園人生を掘り下げてみることにしました。

公園をはじめとした公共空間の活用が注目されるようになったのは、2010年代に入った頃からだったように思います。
同時に、税金で維持管理していた「公園管理」から、公園で稼ぎながら、持続的に維持管理運営していく「公園経営(パークマネジメント)」の考え方が拡がってきました。

でも実は、公園経営は新しい概念ではありません。
そもそも、日本に公園が誕生した当初から公園を経営することが意識されており、昭和初期の東京において、一定の完成形が見られたことはあまり知られていません。

近年、Park-PFIを契機に公園の活用・再生が全国的な拡がりを見せていますが、実は、昭和初期の東京の公園は、世界に誇る公園経営を実現させていました。
「公園独立経済」を掲げて、それを本当に実現させてしまった人こそが、井下清なんです。
井下清の業績・考え方の多くは、いまでも色褪せないどころか、いまこそ公園ひいては公共空間のあり方にたくさんの示唆を与えてくれます。

「公園独立経済」を掲げた井下清とは?

井下清は、明治17年(1884年)に京都で生まれ、明治38年(1905年)に東京高等農学校(後の東京農業大学)卒業後、東京市(土木課)に入庁し、昭和21年(1946年)東京都公園緑地課長として退職するまでの約40年間にわたって、東京の公園緑地の発展に尽力しました。

学生時代の彼は、日中は農学校、夜は英語とドイツ語を学び、さらにその合間には、書店で書物を読み漁るという勉強一筋の日々を送っていたそうです。
東京市には、技術職として入った彼ですが、井の頭恩賜公園をはじめとした多くの公園整備を手掛けたデザイナーとしてだけでなく、経営感覚に優れたプロデューサー、営業マンでもあり、その活躍は公務員の枠にとどまらないものでした。

そして、東京都退職後も、緑化の推進、関東大震災や東京大空襲の犠牲者の慰霊事業、後進の育成など精力的に取り組んでおり、まさに公園緑地に生涯をかけた人生でした。

公園独立経済爆誕!

「公園独立経済」はどのようにして生まれたのでしょうか。

明治6年、太政官布達第十六号が布告され、府県に対し、「公園」という制度を発足させるため、土地を選定するようにという通達がなされ、日本に「公園」が誕生しました。公園の利用や公園地の使用に関わる規則や条例が設けられ、当時の東京府による「公園取扱心得」(1873年)では、各公園に「取締人」を設け、「見苦しからさる商業」に限って公園地を貸し出すことを認めていました。
国も、公園として指定するに当たり公園地の半分を貸座敷・飲食店として貸し出すことによる使用料収入や枯損木の処分収入を維持管理費に充てることを認めました。

さらに、東京市では、公園特別会計を導入し、公園地の貸与による地代収入を財源にして、公園の新設改良費を捻出し、明治22年(1889年)には残金の積立金制度まで設けられました。
当時の公園収入の大半は地代収入であり、浅草公園の地代(浅草仲見世含む)が全公園収入の8割を占めていたそうです。
財政が厳しかった当時、「公園は不要不急」という社会的価値観の中で、優先度の低い公園整備を進めるために編み出された苦肉の策が独立採算制による公園経営だったと言えます。

日本初の洋風公園として1903(明治36)年に開園した日比谷公園(写真は日比谷公園写真ギャラリーより)

この独立採算制を巧みに活用し、議会に働きかけて制度強化を図り、「公園独立経済」を確立させたのが井下清です。
井下清は、以下のような、公園のありとあらゆるリソースを活用して、稼ぐ公園を実現させました。

①公園附属地の貸付または売却による収入
②公園内の特殊施設物を利用するものより徴する料金による収入
③土地建物占有使用料による収入
④公園直営事業による収入
⑤寄付による収入
⑥負担金および納付金による収入
⑦雑収入

明治時代の日比谷公園(出典:『最新東京名所写真帖』国立国会図書館デジタルコレクション)

この中でも、僕が特筆すべきだと思うのは、①公園附属地の貸付または売却による収入です。
これは、公園地を超過収容または周囲の地を除却して公園に接した住宅地を設け、入口付近は売店・飲食店等の敷地として貸付、あるいは適当な時期に売却するもので、貸付の場合は風致制限をして理想的な住宅地としたそうです。
これって実は、公園開発の理想形のひとつとして取り上げられる「ブルックリンブリッジパーク」とそっくりな仕組みなんです!
最近話題のグラングリーン大阪にできた「うめきた公園」も同様かもしれませんね。

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開業が大きな話題となったグラングリーン大阪(撮影:公共R不動産)

その結果、公園積立金は大正末(1926年)には300万円(現在の価値にすると約30億円)に達したと言われており、昭和11年(1936年)には、公園課長以下現場作業員に至る人件費まで含む全公園経費が独自財源で賄われ、「公園独立経済」は完成しました。
これを機に、大学卒の有能な人材を直接雇用し、「井下一家」と呼ばれる体制が形成され、他からの束縛を受けることなく、前例にとらわれず、様々な公園緑地事業を自由に展開できるようになります。
未曾有の災害である関東大震災後の復興52公園をわずか7年足らずで完成できたのも、公園独立経済による独自財源と有能なチームがあったからこそでしょう。

このように、個別の公園の経営だけでなく、東京都公園緑地課という一部署を会社に見立てて、公共事業を独立採算で経営していたことは驚くべきことです。
当時からは、公園の数も面積も圧倒的に増えた現代で、同じことができるとは思いませんが、昭和初期の東京の公園経営から学ぶべきことはたくさんあるのではないでしょうか?

今も色褪せない井下清の10大業績

井下清が成し遂げたことは「公園独立経済」にとどまりません。
自身が設計から営業までこなした日本初の公園墓地「多磨霊園」や子どもの健全な成長と発達のためにハードとソフトを一体化した児童指導事業など、公園の枠を超えた数々の業績があります。

①公園、街路樹の改良
②井の頭恩賜公園を渋沢栄一とのコラボレーションで実現
③多磨霊園(日本初の公園墓地の設計)
④関東大震災復興52公園をわずか7年で完成
⑤児童遊園と児童指導を一体化した子育て運動(ネイチャースタディ)
⑥寄付(企業,篤志家,団体等)による公園新設
⑦都市美運動(都市緑化の啓発)
⑧皇居外苑整備
⑨公共葬務事業(青山葬儀所など)
⑩緑化事業の推進(緑の羽根募金)

井の頭恩賜公園完成時の誌面(出典:『井の頭公園100周年写真集』株式会社文伸HPより)
井の頭池に天然プールが誕生したことを伝える誌面(出典:『井の頭公園100周年写真集』株式会社文伸HPより)
竣工当時の南桜公園平面図(出典:港区HPより)
竣工当時の南桜公園俯瞰図(出典:港区HPより)

利用者本位の公園論

「公園独立経済」を確立させた井下清ですが、単に稼げばよいということではなかったところに彼の凄さがあります。

彼は、公園は利用者本位で計画・設計・管理すべきと考え、利用者目線からニーズを把握し、利用者満足を得るためのマーケティング的発想で、公園整備に取り組みました。たとえば、成人が公園を利用しやすいのはアフター5であるとして、この時代に既に、夜の公園利用についてライトアップの演出の必要性も述べていたのです(今でいうナイトエコノミー?)。
一方で、当時、ホームレスの増加が社会問題化し、排除論が強まる中で、公園を最も「楽園」と感じ利用しているのは、ホームレスではないかとし、彼らの利用への思いやりまでも示し、ホームレスと一般利用者との共存を目指すことを明確に示しました。
ミヤシタパークになる前の宮下公園時代にホームレスを排除したことが物議を醸しましたが、井下清が生きていたら、どうしただろうか、と考えることがあります。

井下清語録

井下清は、様々な機会を通じて、自身の公園論を書き残しています。
彼が残した言葉の数々は、現代の公園において、私達が考えるべき多くの示唆を与えてくれます。
それぞれの言葉に対して、僕なりの解釈をしてみました。

井下清語録①

『公園緑地を如何に我々の日常生活に活かし得るかということは、公園緑地を設ける根本義であって、この利用性の徹底が無くては、貴重な都市の土地を空地にしただけ

⇒使われない公園=官製空き地でしかない、という痛烈な批評ですね……。

井下清語録②

『公園は芸術的な庭園と異なり、如何に立派な研究がされたものであっても、公衆が利用しにくいもの、利用されるべき誘致力に乏しいものでは、公園として価値のないもの

⇒利用しにくい、魅力のない公園=官製空き地ですね……。

井下清語録③

『いかに来園者が喜んで施設を活用し、健やかに朗らかに鋭気を涵うかが経営の目的『公園の経営というものは、時代をリードしていくだけの理想を持たなくてはいかぬ』

⇒まさに公園経営(パークマネジメント)の真髄ですね

井下清語録④

『公園内の広場は戸外の講演、町内の祭典、映写、奏楽等の催を為す事ができて方面的の中心広場の働を為さしめる』

⇒利用者目線の公園活用の徹底、ライフスタイルの創造が重要!

井下清語録⑤

『都市化による美観の統一感欠如の解消は制度で縛ることではなく、市民の自覚によるものであり、都市を愛する思いが利己を超えたときに達成される』

⇒欲しい暮らしは自分でつくる、当事者意識が大事!

井下清語録⑥

『都市風景が緑地に負うこと厚く、緑地の植物等が都市建築美と関連して都市美を構成し、其が展望される事に依て其価値が幾十倍にも増幅される』

⇒敷地に価値なし、エリアに価値あり。

井下清語録⑦

『運動娯楽の施設を造営する責任を持つようになって、学生時代に運動や娯楽に力を入れた体験がないことを秘かに後悔した

⇒暮らしを楽しむ実体験が大事ということですね。

ここでご紹介したものは、井下清が残した数々の金言のほんの一部ですが、これだけでも、井下清の公園・公共空間、そしてそれを利用する人々に対する深い洞察・愛情・哲学を感じることができるかと思います。
いま必要なことは彼が全部言ってくれていると思いませんか?
果たして、彼は、現代の公園・公共空間を見たら何と言うでしょうか?
僕らは改めて、井下清から学び、その想いや哲学を引き継いでいかなければと思います。

参考文献:
『井下清と東京の公園 緑に生涯をかけた彼の哲学』(公益財団法人 東京都公園協会、2014年)
『日比谷公園 100年の矜持に学ぶ』(進士五十八著、鹿島出版会、2011年)
『都市公園制度の変遷と公民連携の課題』(塚田洋著、『国立国会図書館レファレンス』832号)
『戦前期東京・都市公園の「浮浪者」対策』(前田一歩著、日本社会学会 第94回大会)

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