前回(公共不動産活用で「まち」を変える―潮目が変わる公民連携・公共不動産活用概論)は、潮目が変わってきた公民連携による公共不動産活用等の状況を概観しました。
多くの地域で今後ますます不動産の低未利用化が進む中、公共不動産を活用した公民連携プロジェクトは「まちを変える」方法の有効な選択肢のひとつとなること。従来の狭義の官民連携にとらわれず、多様な新規プレーヤーの参入が必要であることなどに触れ、これを都市ビジョンとそのビジョンが実現するような公民連携プロジェクトとして実装していくやり方が有効であること。おおむねそんな内容でした。
今回は「まちを変える」公民連携・公共不動産活用がさらに広がっていくには?について研究員の面々と振り返ります。
またがる複数課題を重ね合わせて解く
多様なプレーヤーの新規参入を加速する
僕は、矢ヶ部さんの「地域再編志向の公民連携・公共不動産活用」という視点に共感します。公共不動産が活用さえされていればどういう形でもよいとは思わないし、行政課題の解消を民間に押し付けているような違和感もあります。
例えば、Park-PFIも、なぜこの公園で実施するのかという目的が、「施設が老朽化している」とか「遊具が足りない」とか「財政に課題がある」とか、行政目線での課題にとどまっているものが多い印象があります。公園がリニューアルされることでその地域をどう変えていきたいかという、エリアビジョンに基づいた議論がされていません。
ただ、行政も組織が細分化されてそれぞれ単目的的になっていることもあり、ひとつの施設において複数のミッションを視野に入れると、そのミッションは別の課の所管ですね、となりがちです。組織横断的なビジョンをどう描くことができるか?現場のジレンマも肌身に感じています。
縦割りの弊害は行政だけでなく民間の大きな組織にもよく見られる現象だけど、その課題に向き合い過ぎても時間が足りなくなってしまうのが気になっていて。
細分化された組織の構造に応じて分けられてしまった課題を、公民連携による公共不動産活用をきっかけとして、繋ぎ合わせたり重ね合わせたりして解く方法を研いでいきたい。その重ね合わせるための土台づくりに、エリアビジョンをつくることが有効だと考えているんだけど…
エリアビジョンを誰がどのように示すのか、というあたりは気になるところです。確かにビジョンを行政が自ら考えて欲しいと思うこともありますが、一方でそれを提示される住民側としてはどうなんだろう?とか。例えば県の施設のような、広域の利用者を対象とするような公共施設が、その施設のある周囲のエリアを対象としたビジョンを描けるのか?という疑問も出てきます。もっとその地域自身が主体となってエリアビジョンを描く必要があるのかもしれません。
これは東村山の公園で起きた事例なのですが、公園の市民活用を進めるという方針のもと、指定管理者が、公園を使ってみたいご近所の主婦の方と対話を重ねました。はじめは清掃活動への住民参加を数回やってみようか程度の話だったのが、徐々に「マルシェをやってみたい」ということになったんです。同じマンションに住むママ友ネットワークに伝わるうち「私もやってみたい」という参加者が広がり、300人が来る大きなフリーマーケットになりました。隣接する施設も巻き込み、キッチンカーも呼んで、学区内の子供たちもたくさん来てくれて、学校の先生たちも「次回は自分たちも出たい」と。こういうこともあり得るんだな、という希望を感じた事例です。
使う人がいてこその公共空間ということを体現する素敵なエピソードですね。すべての公共不動産にこうした「きっかけ」が含まれているはずだと考えたくなります。
民間や地域と行政とで押しつけあう関係から、お互いができることを寄せあう関係になることで、「まちを変える」ムーブメントが生まれるのだとも言えますね。
ただ、議論をもう少し進めていくと、空き地にマルシェというプログラムが象徴的ですが、市民主体で頑張り続けることにも、やはり限度があると思います。日本の公共空間がブレイクスルーし、さらに広がりを生むには、新規技術の導入や、新規プレーヤーの参入が求められるはずです。資金も使えて、技術もあり、まちのことを考えながら小回りに動けるような、市民と企業の中間的な立ち位置のプレーヤーです。
エリアビジョンを設定し、複数課題をつなぎ重ね合わせてプロジェクトで解くこと、さらなる新規プレーヤーの参入を促すことが鍵であることは、方向性としては確かだろうと思います。多分野からの参入を促したり参入ハードルを下げたりするほか、企業活動そのものとまちの課題解決をリンクさせたりするなど、しくみの変革やコーディネートの観点からできる余地もまだまだありそうな気がしました。そして、なぜ公民連携・公共不動産活用が必要なのかを示し、価値創造を促すツールもまた、必要になってきますね。
公共空間への関わり方のグラデーション
関係性の選択肢づくりとことばの再整理
個人的には、公共空間活用に感じる「手づくり感」というか、「一品ごとの手づくりオーダーメイド」であることが気になっています。公共空間活用を大きなムーブメントにしていこうとすると、いずれどこかでこの「手づくり感」を抜け出す必要があります。もちろん地域ごとに特徴ある公共空間活用が実現することはまったく悪いことではありませんが、「〇〇があったからこそできた、〇〇さんみたいな人がいたからこそできた」というような再現不可能なものだらけでも広がらない難しさがあるなと。
僕は、公共空間活用の「頑張ってる感」が気になっていました。ここ数年の公共空間活用は、おしゃれなマルシェがとても増えました。志を持ったリーダーたちが、仲間を集めてデザインにも力を入れて、頑張って進めている印象があります。簡素なテントでさっと設営してさっと帰るような海外マーケットの日常感と比べると、日本のそれは非日常的なイベント感があり、いつか疲れて続かなくなってしまうのではと懸念しています。
「僕たちはいつまで公共空間を頑張り続けなければならないのか?」と言うと言い過ぎだけど(笑)、でも、いま頑張っていることがインフラ化・日常化していくことはもちろん信じつつ、「頑張り過ぎないアプローチ」も欲しい。
特別感が出てしまうのは「活用」って呼ぶからでしょうか?「利用」で良いのですが。「活用」と呼ぶと、そこには「これまでの使われ方と違う新しい何か」という期待が過度に生まれてしまいそうな気がします。
公共空間活用に取り組みはじめた初期の頃、使われていないからもったいないよね、というあたりまでは「活用」と言っても違和感はありませんでしたが、さまざまな公共不動産があり「なんでもかんでも活用」という話でもないということが見えてくると、少し違和感が感じられるようになりました。
公共空間活用が進み、数が増えてきたからこそ見えてきたことですね。どんな土地利用にも、最低限の保全程度から最有効使用するくらいまでのグラデーションがあります。「活用」という一言では言い表せないことが、公共不動産でも見えてきてしまった。
また、公共空間や「まち」への関わり方や距離の取り方にもさまざまなグラデーション、あるいは選択肢があります。骨を埋めるくらいの本気度が問われる関わり方もあれば、応援する気持ちで商品を買うようなライトなファンのような関わり方もある。選択肢がゼロかイチかと極端になってしまうと、関わるきっかけを失ってしまいます。
関係性の選択肢づくりとことばの再整理が必要になっていることに気づきますね。「活用」だけでなく、「民間活用」「公共空間」「公共性」「当事者性」などの言葉も、これまでの経緯と現状を踏まえてこのタイミングで振り返ってみることは、実はとても大事なことかもしれない。
頑張りすぎない持続性ある公共空間
日常性と創発性そしてケア的視点
日常性のある公共空間活用っていいなって思うんですよ。
「まち」の変え方も、ひとつの大きな施設や面的にインパクトを出すようなやり方から、既存のものを少しずついろんな箇所で変えていく、小さな点が数多く集積するやり方に移ってきています。公共施設のあり方も、日常をよくするための公共施設というところに立ち戻るような気もしているんです。
住宅のリノベーションも、以前は見た目重視というか、天井剥ぎ取ってかっこいい!けど寒い!みたいなことがありましたが、今は断熱性能もしっかりしましょうみたいなことも普通になっている。価値観やライフスタイルの変化が、「日常性」をテーマにすることに移ってきているのではないかと。
以前も触れたことがありますが、今ほとんどの公共空間は、単なるサービスプロバイダーとしての行政と消費者としての市民という、一方向の場所になってしまっているのが気になっています。そこから脱することが、今の公共空間に求められていると考えています。公共空間をつかうことでおのずと利用者同士が双方向にケアする/される関係性になっているようなことが実現できないだろうか。
それで想起するのは、岩手県盛岡市のPark-PFI事業で整備された「木伏緑地」の公衆トイレ清掃におけるシルバー人材と飲食店のいい関係です。
緑地に整備された公衆トイレの清掃は、Park-PFI事業者からシルバー人材センターに委託されています。契約上は1日1回の清掃なのですが、実際は頼まれていないのに何回も清掃しに来ているそうで、デパートのトイレかと思うくらいとてもきれいなんです。なぜそうなのか?きっかけはわからないんですが、緑地に出店する飲食店の人たちと清掃員の方との間で、ご飯を振る舞ったりするくらいのコミュニケーションが生まれていて、これが清掃員のやりがいに繋がっているらしい。結果的にそれが公共空間の質の高さにも繋がり、利用者も飲食店も清掃員も運営者もみんな幸せという構図になっている。ここが、まだ語られていない木伏緑地の事業効果だと思っています。
日常的な温度感が心地よいエピソードですね。誰も無理していない、まさに頑張りすぎない公共空間活用であり、双方向というかむしろ循環的なケアの関係性になっているとも言えそうです。そしてこの意図していない余白から創発的に生まれてくるところが公民連携プロジェクトの良さだとあらためて認識します。これを聞いてはじめから計画に落とし込んだり評価項目に入れたりするような、人の心の機微を分からないような人が現れないことを願います……。
「まちを変える」公共空間活用に大切な視点とは?
今回の研究員トークは、これまで公共不動産活用に関わる中で、気にはなるけどいったん傍に置いておいたことや、やってきたからこそ気づきはじめた違和感などが、あらためて見えてきた議論でした。
「まちを変える」公共空間活用が今後さらに広がっていくためには、複数の課題を重ね合わせて解く公民連携プロジェクト、さらなる新規プレーヤーが参入できるようなしくみの変革やコーディネート、公民連携・公共不動産活用の価値創造を促すツールが有効だと考えています。そして、公共空間への関わり方の多様な選択肢を生み出すことや、日常性や創発性、さらにはケア的な視点を持つことも大切なポイントになってきそうだということが分かりました。
今後さらに議論を進め、糸口となりそうなアプローチやツールを模索、試行錯誤を順次していきたいと思います。
前回の僕の論考を受けて、研究員の皆さんの感想をざっくばらんに聞いてみたいのだけど、どうでしょう?