コモンズとしての公共空間
私は大学の卒業論文以降、東京都内の歩行者天国を主なフィールドに、市井の人々による公共空間の使い方を調査したり、私自身もそこに混ざって公共空間を楽しんだり、管理を手伝ったりしてきた。
例えばこんなものである。
歩行者天国に畳を敷いてコタツを出す。
大学のキャンパスに入ってきて遊ぶ子どもたち。
神社の境内で、お客さんが食べ物や飲み物を持ち寄る屋台。
たまたま集まってしまった(ということになっている)港での夕涼み会。
まちかどの空地に現れる立ち飲みスタンド。
本当に些細な事例がほとんどである。お金も人も大して動いていない、目に見える効果があるわけでもない。法律や制度を活用するどころか、許可すらいらない範囲でやっていたりする。ちょっとした工夫と調整で生まれる使いこなし。そんな事例の数々から公共空間のことを教わったので、行政の方や、都市計画や社会学の専門家や、事業として取り組まれている方とは、少し違う見方をしているかもしれない。
公共空間はかつて「コモンズ」であった
「公共空間は誰のものか?」といった議論をする時に、よく思い出す一節がある。思想家のイバン・イリイチが1982年に語った言葉だ。
「メキシコ・シティの旧市街では、通りは、まさしくコモンズでした。道端にすわって野菜や炭を売っている人びとがいるかと思えば、路上に椅子を並べてコーヒーやテキーラを飲ませている人びとがいました。かと思うと、路上で寄り集まって、町内の新しい代表を選んだり、ロバの値段を決めている人びとがいました。また、人ごみのなかを、ロバを駆る人々もいました。ある者は、ロバの背に一杯の荷を載せてロバの横を歩き、ある者はロバの背に鞍をおいてそれにまたがっていました。子どもたちも道端のみぞで遊んでいましたが、それでも歩行者は、ひとところから他のところへ移動するためにその道路を利用することができました。」(イバン・イリイチ著 『生きる思想』藤原書店、1991年「静けさはみんなのもの」より)
道路という公共空間が持っているポテンシャルが見事に描かれている。イリイチはそれがすでに失われてしまったと述べている。たしかに私はここまでの風景は見たことがない。しかし、豊かな世界の片鱗を感じることはときたまある。私はそれを「昔は良かった」と片付けてしまいたくない。現代の日本において意味のある形で取り戻していきたいと思っている。
さて、そんな公共空間に対してイリイチが当てていた「コモンズ」という言葉は、私の最重要キーワードのひとつでもある。ご存知の方も多いだろうが、どんなことが論じられてきたのか、少しだけご紹介したい。
コモンズ論の変遷
コモンズとは、社会的ジレンマを抱えた共有資源を指す概念であり、特に法社会学や経済学の分野で大きなテーマとして扱われてきた。
1968年、ギャレット・ ハーディンが「コモンズの悲劇」を指摘したことをきっかけに広く知られるようになったとされる。ハーディンはコモンズを「利益享受者の全てがルールを守った節度ある利用と必要な維持管理を行うならば持続的に資源から各人が大きな利益を得ることができるが、少数の利用者が近視眼的な自己利益追求を行うならば容易に破壊される性質を有する財」(高村学人『コモンズからの都市再生―地域共同管理と法の新たな役割』ミネルヴァ書房、2012)と定義した。
例としてあげたのが牧草地である。農民はより多くの牛を放牧するほど利益が増える。私有地であれば、牛を増やしすぎた時に生じる問題は自分が引き受けることになるので自制が効くが、共有地ではいくら自身が我慢しても、その分他の農民が牛を増やしてしまう。その結果、皆が野放図に牛を増やし、資源である牧草地は荒れ果て、結果としてすべての農民が被害を受けることになる。ハーディンはこうした「コモンズの悲劇」を避ける方法として、国家による中央管理か、私的所有権への分割による市場化のみが有効であるとした。
それに対し、エリノア・ オストロムは地域コミュニティによる共同管理の可能性を示した。フォーマル・インフォーマルな制度を適切に活用すれば、日常的利用の中でルール違反を相互監視し、資源の状態に対して柔軟に対応することができるとした。
コモンズというと、ある時期までは、伝統的な共同体による資源の管理の問題と捉えられていた。例えば日本だと「入会」と呼ばれるような、山林、漁場、農地などである。
しかし、近年は都市にもコモンズが見出されている。例えば、デヴィット・ハーヴェイは、都市住民による自律的空間「都市コモンズ」の創出を論じている。それを生み出す社会的実践を「コモン化」と呼び、また商業化等による都市コモンズの消滅を「都市コモンズの悲劇」と呼んでいる。より身近で具体的なところだと、公園やマンション、景観といったものを、法的解決力と自治的解決を組み合わせて地域で共同管理するような事例が彼の研究対象となっている。コミュニティが希薄でさまざまな人が入り混じり、分かりやすい資源もない都市だからこそコモンズが力を発揮するということは、私の実感からしても理解しやすいことである。
公共空間に渦巻く利害
例えば、道路空間を都市の「資源」と捉えると(私はずっと道路のことを考えてきたので例示が偏りがちだが許していただきたい)、そこから得られる「利益」として、ざっと思いつくだけでも下記のような項目が挙げられる。
・交通:自動車、自転車、歩行者が円滑に通行できること
・安全:それぞれの利用者が安全に利用すること
・静寂:騒音に悩まされずに生活すること
・商業性:人通りを利用して商売や広告をすること
・生活:溜まり場や遊び場として利用すること
・利活用:祭礼やイベント等で空地として利用すること
・防災:防火帯や緊急時の通路として機能すること
しかし、いずれかの利益に偏った利用が、他の利益を阻害する競合性がある。例えば、自動車の交通が過剰になると、歩行者の安全が脅かされ、騒音が起き、沿道の利用は萎縮する(高度経済成長期以降、道路はこの状態が支配的である)。一方で、イベントばかりやっていたら、違うタイプの騒音が発生し、住民は移動しづらく、周囲が渋滞し、辟易する人が出てくるかもしれない。このような意味で道路空間は間違いなくコモンズなのである。
多くの公共空間は、目的や使用手続きが法律により定められている。ハーディンがいう「国家による中央管理」がなされている状態といえるかもしれない。これは一定の落とし所に達しているように見える。しかし、コモンズに関する議論を踏まえて考えてみると、少し違った見方もありえるかもしれない。要望のバランスが時と場所によって異なる以上、落とし所は常に見直されるべきではないか?ということである。なぜ今の落とし所になっているのかを冷静に振り返り、引き継ぐべきところ、変えてもいいところを見極めるところから、コモンズとしての公共空間の再生は始まるのではないだろうか。
公共空間を「耕す」
冒頭のイリイチの言葉はこう続く。
「このような道路は人びとのために建設されたものではありません。ほんとうのコモンズはみなそうであるように、通りそれ自体も、人びとがそこで生活し、その空間を生活にふさわしいものにしてることの結果なのです。」
コモンズとは、それを目的としてあつらえられるものではなく、小さな行為の積み重ねで生まれるものである、と語っているのだ。
公共空間の利用方法について話すとき、誰でも納得できるような大義を設定して、それに対してこういう規制や緩和があって、というスタート地点から始まることが多い気がする。でも、私が見てきた事例はだいたい、「自分の暮らしをちょっとだけ楽しくしたい」「そこに他の人も入ってきてくれるとなおよし」くらいのモチベーションで始まっていたりする。目的が何か、どんな法律があるか、というのは二の次で、やっているうちに見えてくるものである。
そのような公共空間の使いこなしの方法を思い浮かべるとき、比喩的な言い方であるが「耕す」という言葉がしっくりくる。放っておいたら荒れてしまって何もできない土地に少しずつ手を加えて、土をほぐし続けること。きれいに舗装することももちろん素晴らしいのだけれど、あえて土のままにしておくこと。雨が降ったらぬかるむかもしれないけれど、そのぶん野菜を育てたり、泥遊びをすること。ひとりで耕しきれないなら、見本を示して、道具を渡して、仲間を集めること。そんなバランスの取り方がもっとあってもいいと思う。
自分のものではない空間にわざわざ出ていって、シェアして、他人と調整して、時には怒られて、というプロセスを踏むことはとても面倒である。でもそこにはきっと人間の根源的な欲求がある。必要以上に硬直化してしまった公共空間に揺さぶりをかけて、ポテンシャルを自分の手に取り戻す、したたかな戦いの端緒を見出してしまうのである。今後そういった事例を読み解いていけたらと思っている。
撮影:内海皓平
参考文献
イバン・イリイチ著 『生きる思想』(藤原書店、1991年)
高村学人著『コモンズからの都市再生―地域共同管理と法の新たな役割』(ミネルヴァ書房、2012年)
待鳥聡史・宇野重規 編著『社会のなかのコモンズ 公共性を超えて』(白水社、2019年)
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